Many and Very

いつ死んでもいいように、なるべくがんばって生きたいだけ。

ハロージャニュアリー

こんばんわ、私です。それにしてももう1月が終わるところなんて信じられない。

1月私は確かに毎日息をして生きてきたなずなのに、これはいったいぜんたい、どういうことでしょうか。

あけましておめでとうございます。年末ジャンボはもちろんはずれております。

 

去年の末、病弱で生まれた末っ子の心臓の調子がすこぶるよくないようで、

寝ても覚めても心配で細胞がすりつぶされそうな気持ちで過ごしていましたが、1月に入って病院がオープンしたとたん、大きな手術をまた一つ終えました。

 

めちゃくちゃ疲れた。そりゃ娘が一番がんばってるってのは大の大前提として、私も疲労困憊です。

疲れた一番の大きな要因は、明日の自分の状況がまったく読めないってこと。

明日の自分の気持ちがまったくわからない。明日自分は笑ってるのか、それとも絶望とともに泣いてるのか、泣いてはいるけど絶望はしてにないのか、笑ってはいるけど絶望してるのか。

何を感じてるのか、明日おこるかもしれない辛いことを、自分ははたして、乗り越えられるんだろうか、のりこえられなかったら、わたしはいったいどんなふうになるんだろうか、など。

 

まぁそんな感じでですね、明日の自分がよくわからないってのは、想像以上に気持ちがつらかったんですよ。今は「明日の自分もたぶん今日と同じかな」って感じなので多少リラックスしております。

具体的にイメージすると、激務の中、やっとはいった夏休み初日、あと10日は休みですよでへへへ明後日は成田から昼過ぎのフライト(ホノルル行き)だからそれまで死ぬほどだらけちゃうもんね〜〜げっへっげへっおやすみ〜みたいなリラックスレベルが10としたら、いまは4くらい。

 

生まれてからずっと病院に入院して、おっぱいもまともに飲めず、抱くことも満足にできず、当たり前に点滴が何本も挿入されて、当たり前のような非日常が彼女の日常であることに、親としてこれが最善なのかと常に苦しい気持ちでいたけども、

いまは少しずつ回復に向かっている彼女を見て、これが世界の医療の限界だよなってしみじみ感じてる。それはもちろん、良いと悪いと、両方の意味で。

 

そしてこんなことは意図せず経験したわけだけど、自分の職業として、医療職を選んで良かったとも何度も思った。誰かの人生の側面を、こうやって支えていたのか、私たちは。という風に。病院は愛がある。どんな場でも、医療の基本は人への愛だ。それは間違いないです。

 

 

え〜それで、今は育休取得中の夫が娘のもとに行っているので、私は残る子ども二人担当です。

 

子に関しては一生懸命やってたって、仕事が忙しくて片手間みたいにろくにあいてもしてないような状況でも悩みの種はつきないですな。あちらを立てたらこちらが立たず、みたいな。

 

末っ子は病弱だけども、病弱な末っ子にかまってたら上の大切な大切な「兄弟児」ふたりも不憫だし。

しかしそうは言っても彼らも我が家に生まれてきた以上環境要因は受け入れてもらなければどうしようもない。

私たち夫婦だって、彼らの親としていまできる精一杯をやるだけだ。ってことはわかってるんだけど、どうしてもやっぱり、悩みはつきない。悩んだってしょうがないとは分かっていることを悩む。「そんなこと悩んだってしょうがないでしょうってわかってるんでしょ?」なんて自分に問いかけながら、気持ちの執着地点に到着するまで、一つずつ自分を納得させています。

誰かに何かを話しても、いまはなんというか、何を言われても勝手に傷ついてしまうというか、

ちょっと自分がセンシティブになりすぎてて、それがしんどい。自分の問題ってのは自分が一番よく分かってます、だからこそ。

 

他の荷物が重くなってくると、もう誰もわたしの調子やご機嫌なんて伺って配慮してくれない。自分のケアは、自分でやらないと誰もやってくれないってことが、ただの事実としてそこにある。自分と仲良くしておくにこしたことはない。死ぬまでずっと一緒なわけだし。

 

 

さて、おやすみなさい。つくづくこうやって気持ちを書くことは、私にとっては大事なことだってしんどくなってくると思うから、今年もぼちぼち更新します。