Many and Very

いつ死んでもいいように、なるべくがんばって生きたいだけ。

生理的な欲求

今日は私が嫌で嫌でしょうがなかった次男の歯医者へ。2歳の次男、初の虫歯治療です。

 

昨日のよるから憂鬱すぎて夜の8時半に就寝。

朝はそのストレスで無気力になり、予約時間ギリギリのくせに防寒タイツとキャミソール姿でクロゼットの床にすわりこみインスタのストーリーをひたすらに見るという謎の行動をとったりもしましたが、なんとか普通に診察・治療が済みました。ホゥ・・・・・・・(長いため息)

 

次男はめちゃめちゃ泣いていましたが、なんとか治療を終えることができこちらとしてもひと安心です。銀歯はまぬがれた・・・・

 

夫に報告すると「ふぅん、やっぱ脅されただけだったか」と。

H氏はこういうものの捉え方をする傾向の持ち主なのである。「そうだよ、さんざん脅されたけどそんなに深くなかったって」と心の中で返答しました。口に出さなかった理由はなんとなく面倒だったから。そういうときもあるよね。すくなくともH氏にはたくさんある。「めんどくせ」って顔でなにも言わないとき。

 

午前中に虫歯の治療が終了したので、午後からは幼稚園(今日は午前保育)を休ませた長男とともに、市内の子育て広場でひさびさのママ友活動に参加しました。ママ活って何って、適当な場所で子供を適当に遊ばせて母たちはくっちゃべる会のことです。

 

夕方まで遊ばせて帰りに寄っ市立図書館のカフェでさらっと夕飯を食べさせて6時に帰宅。子供たちもその時間に就寝!最高!!!!

 

ママ友の旦那さんは美容室を経営してるので毎晩遅く、うちの夫もシフト制の当番制なので「食べて帰ろっか」という感じで寄ったんだけど、5時半の時点で夕飯終了したなんて最高すぎる、車で寝たら夜なにしようか、どうするなんて夢のある話しながらバイバイしました。

子供たちは狙い通り帰りの車の中で就寝して、夜更かし最高!最高すぎる!!最高のひとこと!!ヒュウうううううう!!!って感じの今夜。

 

夫も寝てます、やだどうしよう、なにしよう、ってことでブログ書いてます。まぁ起きててもするやつですが。

 

最近びっちり仕事していたので、久しぶりに土日以外で子どもたちと外で遊んだけど、やっぱり専業主婦でも仕事していてもしてなくても、1日は同じだけ疲れる!!

 

「俺の方が」「わたしのほうが」大変、つかれる、きつい、などと比べることはどうか置いといて、みんな一緒に「おつかれさーん!」って感じで支え合うことは可能でしょうか。

 

 

自分は自分の望んだように、いま持ってるカードでしか人生は過ごしていけないっていうのはただただ言葉通りそうなんだけど、それで他人の目が気になったり緊張したりして、日頃の自分の自意識過剰と敏感具合にほとほと疲れて嫌気がさしてきた。

 

何か発言したら、間違ってなかったか失言じゃなかったか変な人と思われてないかなどと思ったりして、

 

一方でそんなこと気にしてたってしかたないし、だれもその役割を私に求めてない、というのもある程度わかってるんだけど、思うことは止められない。

 

 

けどたぶん、何度も言うけどこんな私ごときの悩み事はきっとありとあらゆる先人たちが思い悩み、傷つき、考慮され、配慮し続けられてるものなんでしょう、というものわかる。

 

このまえ見たNHKのフレディマーキュリーのドキュメンタリーでも本人が言っていたけど、自分のつくった求められる役割を演じてるだけって、

きっとわたしもそのことを自覚する年齢っていうことなんだろう。

 

マズローの基本的欲求に振り返ると、所属と愛の欲求が満たされてるから、承認欲求や自己実現の欲求が高まっとるんかな。成長欲求ということ????他者から承認される欲求等よりも、自分自身でこれだ、これでいいのだ、がんばってるんだって思えない部分があるから、こんな気持ちになってるのかなぁ、、、、

 

 

と感情メモ的な内容ですが、時間も遅くなってきたので眠ることにします。

 

35歳にして、自分は何者でもないってことはもうわかってるんですけど、それでもそのさきに、自分で自信の持てる何かを、得たいという気持ちは変わらないんだよな

 

 

さて、おやすみなさい。最近のあたし自己肯定感低いのかも。そうかもしれない。

 

 

 

家族の基盤

今日は職場の方々が我が家に遊びにきてくれまたたこ焼きしてました。

 

たのしかった・・・・

 

 

そして夫婦というものの難しさについて話す。

 

子育てにおいて一番大切なのは夫婦の基盤、悩み深い母のほとんどは夫婦間での問題を抱えている場合が多い、という話。

 

夫婦で日頃の近況について話し合ったり、好きなものや楽しかったことについて語ったり、嫌なこと不快なことについて慰めあったり、体を重ねたり、喧嘩したり、依存しあったりすることは、簡単そうに見えてけっこう難しい。

 

そうだよなぁ、なんて話を聞きながら、H氏とは今のところ依存しあって仲がいいので、本日朝に「やっぱり再来週の沖縄きびいしいわ、ぜんぜんホテル空いてないし、3泊だと20万近くするもの」と言われたことにムッとして(というよりチッとなり)ムッとしながら仕事を送り出したことを反省しました。

 

うむ、私は沖縄に行けない!=不幸!などと変換していたが、それは大きな勘違いである。

 

 

夫婦の誓いや家族の絆については本当に大切なものだと認識しているけど、

それでも人の人生は自分のもので一度きりなんだから、不幸な相手、愛してない相手と結婚生活を送っていることはもったいないから、もし現在のパートナーのほかに好きな人ができたら応援するよ、と友人(同じ職場の同級生)には言っておいた。

 

 

好きな人がこの世のどこかにいるというのは、私にとっては人生の光や水みたいなものです。それがないと元気に生きていけない。

 

願わくばH氏にとっての私もいつまでもそうでありたいっすわ。

 

さて、いま村上春樹アフターダーク読んでるのでもう布団いきます。2ページで寝る予感。おやすみなさい。

 

 

OPEN

先日家族で食事に行く機会があったので、母に悩みを打ち明けた。

 

「私最近自意識過剰なんだよね、こんなに満たされてる自分が誰かに何か言ったら、それは余裕あるからそんなこと言えるんだよとか、そういう風に見られるの怖くてそのことばっかり気にしちゃうの」

 

母はふーんという顔で少し考えてから、いろんな人と仲良くやっていこうと思ったら、そこについては色んな人の立場をよーく考えてから発言するのが大人だ、というようなことを言っていた。

 

え、やっぱり!?やっぱりそうだよね!?

学生の時は子どもだったからそんなこと考えたことなかったし、

社会人で独身の時は周りがみんなほぼ看護師で、変則交代制勤務のストレス生活横並びだから満たされるもクソもなかったし、

そうそう、そうなの、今は息子たちのつながりだから今までと全然ちがうんだってばよ!

どんな人がどんな生活してるか関係深くないから分からないし、何がマウンティングで何が自慢で何が卑屈なのか何が何だかわからんちんなんすわ!

 

母は「そういうことを考えなくてもいいように、生活水準が同じような人とばかりつきあう人たちもいるよ」と。

 

 

そうだ、ここはシンプルな二択。

 

十分に満たされしものとして、何不自由なく優雅に振る舞うマリーアントワネット派

 

それとも民衆の生活を理解し共感し共に生きる西郷隆盛

 

どちらも最後は不幸に死ぬ、

 

それはまあそうと置いといてこんなこと考えることがそもそも…とまた堂々巡り。

 

その時一緒に食事した兄は「自分は全く気にしない、他人の目なんか気にしたことなんかない、ただの事実を言ってるだけ、マウンティングじゃないし」と横槍を入れてくる。

 

まあもちろん個人が生きたいように生きればいいんですけどね。

 

私はというと、余裕はきっとあるだろうけど、そんなことはさておき、するっと楽しくしているように見える横浜の友人家族のようになりたい。

具体的なモデルが近くにいると分かりやすいじゃないの、あれよ、あれ、あれか。

 

ということで今日は昼から職場の方々が我が家に遊びに来てくれる予定なので、そろそろ起きて掃除するか。

 

来週は年度末に夫の未消化分週休を消費する、思いがけない連休があり、

 

沖縄に行きたい沖縄に行きたい沖縄に行きたいと10回くらい言いましたが、

沖縄かあ、けっこう高いんだよなあ、と渋っていましたので、

んじゃこういう時のために使おうと思い、結婚した時からコツコツと貯めた500円玉貯金の缶を開封しました。

すごい達成感!!30万円はなくても20万円はありそう〜。

 

みなさまも良い週末を!!

 

 

自意識が過剰なんです

私はそもそも自意識過剰なんじゃないだろうか。

 

なんだかこんなブログとか書いて、ついでにツイッターでもぼんやりとつぶやいてるし、インスタグラムでも自分でおもしろいと思ったりすると投稿するときもあるし、

 

これは自己表現しすぎなのではないだろうか。

 

ためしに自意識過剰についてググってみる。

 

自意識過剰とは、自分自身の事柄に関して過剰に意識している人。

自意識過剰とされているものには自分の外見や行動などが他人からどう思われているかなどに、必要以上に注意を払っている傾向がある。まさに私のことです。 

人前えスピーチをするときなどに、他人に良い印象を与えることへの意識のしすぎによる緊張があがり症と言われている。なるほど。私はあがり症ではないんですけど、最近はスピーチを求められたときに緊張するので(昔はまったく緊張したことなかった)、そういう傾向が出てきたのかもしれません。

 

 

結婚するまでは仕事のストレスと不毛な恋のおかげで、不幸せには苦労しなかったし、それを表現したところで道端にツバを吐く程度のことかと思って垂れ流しにしてたけど、もしかしたら今の私はいろんな言動や行動が「あのひとなんか気に入らない」みたいな評価につながって誰かの敵意を受けるんじゃないか、

 

なんてことを密かに考えていたので、すっきりしました。

私は自意識過剰です!!!!!(大声)

 

ついでに仕事でも「子育て世代のお母さんたちを元気づけたい」という気持ちが大き過ぎて、「失礼なこと言いたくない」→「いい人だって思われたい」と言うような感じで余計に自分に矢印がフォーカスされていたと思われる。

 

 

これはけっこう前から薄々と気づいていたので、先日遊びに来てくれた友人にきいてみた。

 

わたし「ねぇ、わたしっていま最高にしあわせそうに見えて生きてるだけでマウンティングしてるみたいに思われて誰かから敵意もらうんじゃないかと怯えてるんだけどどう思う?」

友人「はぁっ?なにそれ」

 

友人たちはふたりして「あんたのこと誰もそんな気にしてないから大丈夫」との返答だった。そうか。それならいいのだ、それならいい。心から。

 

 

私はどちらかというと、自分の意識に関してはものすごく無頓着な方だった。

今でこそ小さな頃からあまり不自由したことがない幸せな人生だったと自負してるけど、

自分の家がある程度お金にも不自由しない家であったことに気づいたのは、社会人になって自分で生活するようになってからだ。

 それまでは「恵まれている」とことがどのようなことであることかについてさえ、考えたことなどなかったのだ。

 

しかし今は違う。

無頓着で生きてきた私が大人になり、「十分すぎるほど恵まれている」ことを自負し過ぎて、もはやどのように振る舞えばいいか見失っている。

 

自分が満たされている分、周囲にお返ししなさいというのは色々なところでよく言う教えだが、

周囲にお返ししたつもりののち、「これが人として正しいか」「そうじゃないか」「もしかしたら嫌な気分になってる人がいるんじゃないか」などと考えだすと、もはや判断できない。

 

私の振る舞いが、誰かにどう、捕らえられているのか。

 

そういうようなことを悶々を考えていると、なんだか道を外せないような気持ちになってくる。つまりはまったくそのとおり、典型的な自意識過剰なのだ。

 

夫や、もともとの友人みたいに昔からの私を知っていてくれる人の前では、何にも考えないでいられるけど、

 

「しあわせな」自分が、どう振る舞えば正解なのか、よくわからない。

 

「ちがうんです、わたしはほんとうはそんな人間じゃないんです」とよくわからない弁解をしたくなってくる。

 

まぁ「ふつう」にしてればいいんですけどね、誰もわたしのことそんなふうに意識してないのわかってますけどね、

でもその「ふつう」が不快に思われるのがしんどい、というか。いや、不快に思われたり別にしてないと思うんですけど、いやそこは分からない、わかる?わからない、はい、そうですよねぇ。自分でもよく分からない。

 

よく思われたいって気持ちがたぶん大きすぎるんだろうなぁ。

わたしなんてそんな大したもんじゃないのに、環境に自分がついていってないというか。そもそもそう思うこと自体が自意識過剰なんだよな、うん、ほんとそうなんだ。

 

 

「しあわせな私」が何かをおすすめしたり説明したりするのは、本当は自分が満たされていることを誰かに表出するための手段であって、実は誰かに対してのマウンティングなんじゃないか・・・・とか考え出したらほんともう分からない。

 

海外旅行してる人が美しい景色をシェアしたらマウンティングか?

東京に住んでいる人が美味しいレストランのディナーをポストしたらマウンティング?

旅行に行ってきた体験を聞かれもしないのに報告するのはマンティングなんですか?

すんばらしい本を読んで感動について説明するのはマンティングなんでしょうか?

 

友人たちが言うように「誰もあんたのことそんな気にしてないし」と言われればほんとホッと楽に色々言えるんですけどね。

 

さて、明日は朝から恐竜の化石見に出かけるのでそろそろ寝ます。

 

なんだか気分がパッとしない。いろんなことを考えて心臓がどきどきすることもあるし、自律神経の乱れを感じる。なんだかパッとしない気分については、今年もまだ大殺界だしということにして諦めよ。

こんちくしょうめ、大殺界。ふぅ。

 

おやすみなさい。

 

 

遠くのほうから

先週1週間は、なんだかわたしの気持ちのコンディションが良くなくて落ち込んでいたので、毎晩夜9時前に寝てました。

 

夜9時なんて、これから男性に今何してる?とかメールしたい時間帯に、子持ちの主婦はぐーすか夢の中なんですから、そりゃ独身20代とは話は合わない。生きる世界が違うとはまさに言葉通り。

 

2歳半過ぎた次男の奥歯に小さな点を見つけて、まさか虫歯?と思って歯医者に行ったら歯科医師にしこたま怒られる。

長男ときもしこたま怒られたので、歯にはけっこう気をつけていたけれども、結果は散々。3歳前のこの結果では、事態はかなり深刻としか言いようがない、と。

 

1つずつ親としての責任みたいのを詰められ、今は酒も断る世の中なんですから、もらったお菓子は食べていい(我が家ルール)なんて甘いこと言ってたらこの先も一生虫歯になり続けますので強い意志で断わって下さいと言われる。

 

キツイ内容でネチネチやられながら、

それでも子どもには優しく治療してくれるからと思って通ってるんだけど、そろそろ気持ちの限界なので今回の治療が終わったら歯医者を変えよう…

 

タダでさえ2歳の次男に虫歯発生の事実に深く落ち込み涙しそうなのに、診察後にぺしゃんこにされて家に帰ってから少し泣いた。

 

子どもたちも夫も、まさか私が歯医者から帰宅して泣くなんてビックリして引いてたけど、一応優しく抱きしめてくれました。歯医者に詰められた(言葉で)心は膨らまずまだ引きずってます。ハア。

 

しかし先生はすごいよなあ、と客観的に思うこともある。私はお子さんのためにもっとこうした方がいいとかあったとしても、親の反応が怖くて強くいえない。おそらくそれを超えての歯への情熱があるんだろう。

しかし同じ医療者として、診察や健康相談を受けるにあたって、本当に必要な正しい態度とはなにか、どういう医療者の態度が相手に響くのか、ということは常に考えていかないとダメだよな、と思った。

私がここまでぺしゃんこになるんだから、他の人だってもちろんなるだろう。

 

とりあえずいかなる場合も、相手の感情について理解し共感するのは、治療をすすめるにあたってほんと大事なことだと思った。

 

あとは夢見が悪かったり、月経前に精神的に追いやられたりして、

最近精神的にも落ち込むことなかったからしんどかったです。いや、今も続いてるんだけども。

 

最近夫と子どもたちに守られてるからあまり悩みもないし辛いことも何もない安泰平静な日常でしたが、久々に独身時代みたいな感情の起伏で疲れた。

 

でもひさびさに感情の起伏を感じたけど、そうそう、これこれ、って感じ。過去の地獄に落としてしまい込んだ思い出さえもフラッシュバックするような。

 

こういう時は新しいことしたり、本読んだりするといいよね。買い物だとなぜかさらに消耗することが多い。

読書は最近特に実務的な医療系の本ばっか読んで小説から遠のいてたから、なんか読もう。

 

今日はもう寝ます。おやすみなさい。

 

point

今日は長男の年少最期の参観日でした。参観日と言う名の生活発表会!

 

息子はカラスのパン屋さんの警察役で劇もしました。

 

1年間ともにしてきたメンバーと、とても楽しそうに劇に参加してて、鑑賞中にわたしの細胞が感動で満たされていくのひしひしと感じた…

 

息子は2歳過ぎたしゃべりはじめの頃から吃音があって、発音もまだかなり不明瞭さが残る。

いまでもスムーズに言葉が出ないことも多々あり、そのことを個人的にはとてもとても心配していて、

親としてはそのような場で、どもらないか…とか大丈夫か…とか何かと気がかりだったけど、セリフもはっきりと言えてたし、何より笑顔で楽しめていた様子が親心に沁みた。

 

息子よ、大人の心配を軽く超えていくな…

 

 

はっきり言って吃音に関しては原因も分からず、治療方法も明らかではない。

言語の先生から言われているのは、今の吃音者のとって大切なことは、そのことを小さな頃からオープンにして、親という理解者が良き相談相手になれること。

お話するのをやめたり、そのことで思いつめたりしないように、今のところたくさんお話してくれるかわいいかわいいかわいすぎる息子に寄り添っていけたら、とか思ってます。

 

ちなみに次男も吃音です。次男がどもりはじめた時は、兄弟で!?とかちょっと笑っちゃったほど。

でも遺伝情報同じだし、別にないことはない、よね、という感じ。

 

まあ長男も次男も、吃音のお話をする側と、聞く側のことを体験できるという利点もある…

 

 

吃音のことを自分の人生の中で、傾向の1つとして認識して、それ以外の得意なことや楽しいことで上回れるような人になってほしい。心から。

 

ということでそのような背景もありつつ、ほんとに楽しい本日でした。

明日は年少の幼稚園児の母たちの希望者で食事会と言う名の飲み会!!ひゅー!ぱふぱふ

二次会コース、できたら三次会まで楽しむぜ!

 

 

そして夫と子どもたちの就寝時間についてちょっとした口論となる。

 

自分はケータイとかテレビばっかみて、たいして家事育児に参戦しないくせに、早く寝ろばっか言って頭おかしいんじゃないの!?んじゃどうやってやるのよ!?具体策示せよ!タイムスケジュール組んでみろよ!

 

早く寝ろって言うなら自分が率先して世話しなよ!なんでも私にやらせようとして腹立つなあ!忙しく子どもたち攻め立ててたらそれはそれで文句言うくせに、なんでもかんでも無理だわ!!あんたがやれ!口だけ男!!!

 

とか言うことを言いたかったけど、全部言ったら角がたつんでもちろん一割くらいしか言いませんでした。

 

そして寝る前に以下のメールを送信する。

 

帰宅5時
帰宅後のトイレ、手洗い、着替え、幼稚園の片付け、ストーブ点火30分
食事準備45分
食事30分
後片付け30分、明日の弁当準備10分
お風呂30分
着替え、クリーム、歯磨きなどの寝る準備20分
洗濯物、部屋の片付け15分
洗濯干し20分


どうやって8時に布団に入るのか一緒に考えてください。1人じゃとうてい無理です

 

ゴミの日のゴミ集め
ゴミ捨て
買い物後の片付け(その都度)
掃除機かけ(毎日)
お風呂掃除(毎日)ロング(週1)
トイレ掃除(毎日)ロング(2週間1)
こどものオムツ変え
タオルの交換(3日に1回くらい)
バスマットの交換(2週間に1回くらい)
お弁当づくり(毎日)

などなどいろんな家事があります。
子どもたちが8時に就寝するにあたり可能なプラン立てるにはどうしたらいいですか

 

 

そして返信は

職場の同僚に聞いてみます

 

とのこと。そこ!!?

 

斜めからの返信にまたイラつきました。なんじゃいそれは…いつもあんなにケータイいじってなんか見てるんだから、それも調べたらいいんじゃないか

 

 

私個人としては、育児に関して子どもに行動を制限されるのは、ある程度仕方ないと思ってる。

(むかし動物園で猿山の子育て中のメス猿をみて、哺乳類である以上これはもうメスとしての宿命なんだと共感したことがきっかけ)

 

しかし家事は違う。誰がやっても変わりはない。それが夫でも。機械でも。他人でも。

 

家事の見える化で、一回ぜんぶ家の仕事を打ち出してH氏に見てもらうか。

あの人はロジカルなことだと納得する傾向にあるから、子どもたちを8時に寝かせるという共通の目標、具体的な解決方法に向けて話し合っていこうと思った深夜のこと。

 

ちなみに今はだいたい帰宅5時からの、就寝は9時くらいです。9時には布団に入って起床は7時。

目標は8時7時です。あと一歩。

 

でもたぶん解決はわりとすぐだと思う。本気で2人で協力すれば。1人じゃ時間的に無理なの明らかですが。

 

 

 

力しごとの

先々週の大寒波の時、次男の通っている保育園で雪中運動会があった。

最高気温がマイナス10度のなかなかしびれる寒さの中で、子どもたちは雪に埋められたみかんを探したり、親子そり競争で大福を食べたりして楽しんだ。

 

そのあとの話。

 

年長さんの親御さんが、おいしい豚汁をつくってくれて、保育園のとなりにある公民館でお昼にみんなでそれをいただく、というランチタイムがあるんだけど、そこである保護者に同席していたH氏が「高いところにある重いお鍋を運ぶの手伝ってくれる?」と声をかけられた。

 

彼は快く「あ、いいいですよ!」って感じで爽やかにそれを行った。

そしてみんなで運ばれてきた豚汁を食べ後、会場の机の片付けがあったんだけど、H氏は率先してせっせと机の片付けをしたのだった。

 

私はそれをふーん、という感じで見ていて、帰宅したあとH氏に尋ねた。

 

「あんたさ、あの机の片付けのときさ、率先して片付けしてたけど、なんで?」

 

「え、そんなの男手が少なかったから(父の参加は全部で3人だった)に決まってるじゃん」

「でもまぁあんな机なんて女の人でも運べる重さじゃん、そういうの見てて、なんで俺が男だってだけで、こんなこと率先してやらないといけないんだ、めんどくせぇって思わないの」

「思うわけないじゃん、そんなことで、ばかじゃないの。」

 

私は思った。

それは私がばかじゃないの、なのか。

これは性役割の話じゃないのか。男性差別の話とは全然違う話なのか。

医学部で女は子育てあるからって定員制限されることと、実はずっとたどっていくと同じ家から出てる問題なわけじゃないんだろうか。

 

もし私が男性20人のなかの女性3人のうちの一人だったとして、率先してお茶汲みやお酌をしただろうか。

そもそもテーブルを運ぶのはお茶汲みとは全然違うのか。だとしたらテーブルを運ぶことと同列にあるのは何か。掃除だろうか。

 

いや、それとも、そもそも、これはそういう問題なのか。

男がだから重いものを持つ、女だからお酌をする、というのは全然別の話なのか。それとも同じラインの話なんだろうか。

 

女には持てないものを男が持つのは役割か。

だとしたら男にできて女にできないものがあっても、女にできて男ができなことなんて出産と授乳しかないんじゃないのか。

だったら出産と授乳は「当たり前」なはず、というかそれは確かにそうだし、だったら力のついた男は重いもの運ぶの「当たり前」?

 

なんだかよくわからないまま、今に至ってます。

 

この日本で、特に男子の母である以上、この先の未来で「女がやる」「男がやる」ということは重要じゃない、やれるほうがやる、というのが重要なんだ、ということは子どもたちが大きくなるまで再三に伝えていこうと思ってる。

 

けど、自分の中で「やれること」が男女で同等だった場合、それを「力」とか「性役割」で分類するのは、どこまで許されるのか、ということを疑問に思う。

「やれるほうがやる」のほかに「得意な方がやる」という条件をつけた場合、やはり男性にそのような力仕事が偏ることは自然な流れなんだろうか。

 

以前は「男は女を守る」みたいな考えが自分にもあったけど、今はそのベクトルは両方から相手に出てなければうまくいかないことがよくわかる。女だって男を守らないと、男女関係は継続していかない。

 

池上先生みたいなフラットな視点で、そういうの本とかよみたけどいまいちよくわからず。誰に相談すればいいのかな。図書館司書さん?おすすめもしあれば教えてくだちい

 

 

 

ところで昨日はいつもは別寝室のH氏が同じ布団で家族4人で9時前に就寝したんだけど、

びっくりするほど鮮明に、かつて大好きだった人の夢を見た。

 

あまりにリアルで鮮明に髪の毛一本や全身の雰囲気まで再現されていたので、目が覚めた時にどっちが夢だったか一瞬混乱したほど。

 

どきどきしながら携帯電話の画面で時間を確認すると、夜中の2時半になる少し前だった。寝起きだっていうのに、頭はすごく冴えていた。夢の入り口と現実の出口が、まだつながっているような感覚が残っていた。

 

寝室には3人分の寝息がそれぞれ聞こえてきて、ひとりで気持ちを落ち着けたかったので、静かに起きてひんやりしたリビングに出て薪ストーブに薪を入れ、ライターでカチリと火をつけた。

ライターから出た小さな炎はmパチパチという音を立てて徐々に木を巻き込んで大きくなっていく。

 

「あーぁ、あの夢なんだったんだろ」とため息をついた

 

ところで長男が「おかあぁぁぁ〜〜〜〜〜さ〜〜〜〜ん、どこぉぉぉぉぉ」と言って起きてきました。

ほんとね、長男はいつも私がそうやって起きると一緒に目が覚めてしまうので、まじで甘い夢も一息つく暇もない、というだけの話。

夜中に起きてきた長男はチョロチョロとおしっこして、「一緒に寝よう」と誘われてそのまま寝てしまったのでストーブはもったいなかったし、9時から7時まで寝たから体も痛かったです。

てゆーか小説っぽく書いたつもりなんだけど、書いてみたところで小説家ってほんとすごいよなぁと実感したという。

 

 

さて、本日は腸内細菌について録音したやつを職場の方にお借りしたのでそれ聴いて寝ます

 

ブエナス ノチェス