Many and Very

いつ死んでもいいように、なるべくがんばって生きたいだけ。

なんにもないけど

本日はめずらしく夫が我々の寝室で子どもとともに就寝したため、私は「ふぐぐぐ」という具合に起き出して洗濯・仕事の宿題(新入職員だもので)、キッチンの片付けを終了させ、このパソコンの前に座りブログを更新している。

 

パソコン用の椅子はファネットチェア。

知る人は知る、有名な高級ビンテージの椅子である。家を新築したとき、ハイテンションにまかせてメルカリに出てるのを急いで買ったけど、いざ来て座ったらギシギシとゆがみがひどく、子どもが座っただけで壊れそうな様子であった。

地元近くの創作家具をつくっているお店の人に相談してもらったら、なんと無料で直してくれたありがたい椅子である。直してもらったけど、相変わらず椅子はよしかかると「ギシ」という音がする。

 

いつものパソコンの前にすわって「何かこうかな」と思った。

 

別になんも書きたいこと、ないんだよな

 

最近別に、なにも楽しいことないし。

 

仕事して。帰宅して。そして寝る。また起きて仕事。合間にコロナ。コロナの話題は四方八方からいいかげんほとほと疲れた。

 

語って感染が治るなら、語ってリスクが減るなら書くけど、どうやら全然その効果はないし、

だったら極力何もしないのが個人にできることなんだったら、別に書きたいことだってそんなないんだよな、などとぼんやりと思った。

 

あの人はなにしてるんだろとか、友だちはみんな元気なんだろうか、ステイホームしてるんだろうか、

 

どこかに旅行に行ったり、誰かと気軽に食事したり、誰かとともに近い距離で笑いあったり、そういうことが「いいね!」と言える世の中は、いったいいつまた来てくれるんだろ

 

会いたいと思うことが「いまはいけないこと」で、楽しい思いをしたい気持ちが「家で工夫しろ」だったり、みんなで出かけたいことが「いいかげんにしろ」などと言うのは、いったいぜんたい、いつ終わるんだ

 

 

「こっちよりまし」「ここはこんなにひどい」「あそこはこんなに我慢してる」

 

誰かと誰かを比べあって、誰かと誰かが監視しあって、誰かと誰かが気にし合う

 

まさか唐突に、そんな世の中になるなんて、私そんな準備ぜんぜんなかったよ・・・・

 

 

うちから幼稚園に向かう道路の途中に、新しいパン屋さんがオープンする。

 

信号待ちしながら「ここもうちょっとでオープンだって、嬉しいね」とひとりごとみたいなことを言うと、

後ろの座席にのっていた3歳の次男が「もうコロナウイルスなくなるの?」と聞いた。

 

コロナウイルスはねぇ、たぶんなくならないんだけど、パン屋さんは美味しいパンやいてくれると思うよ」と言いながら、なんだろな、これは、となんだか切ない気持ちになった。

 

 

書きたいことがなくても、やりたいことができなくても、今の気持ちを残すことはもしかしたら一応価値あることにつながるかもしれない。

 

別にみんなに披露したいことがないときだって、私はこうして書いてきたわけだし。

 

正直な気持ちを残しながら、明日も毎日やっていく。それなりに。そうやって、毎日やってきたわけだし。

 

 みんなもそうやって、頑張ってるわけだし。