Many and Very

いつ死んでもいいように、なるべくがんばって生きたいだけ。

余裕

けっこう前になるけど、日本で数年前から行われている子どもの体や環境についての検査のアンケートに回答していたとき、

[1日のうちでお子さんと遊ぶ時間はどのくらいらですか]という質問があった。1時間以上、30分、それより少ない…回答はそんな感じで1つ選ぶようになっていて、

 

わたしは遊ぶ時間…とは…と考えた。

 

 

仕事があるときは朝9時前から家を出て、夕方5時頃に帰宅し、

今は冬でまっくらだからカーテンしめたりストーブに火をいれたり、犬のおしっこシート取り替えたり、

それから2人分の幼稚園道具(お手紙、洗濯もの、オムツ、お弁当箱セットなど)のチェック片付け、

子どもたち腹ペコでおやつ食べたりして、

適当なぱんやらおやつやら食べてるうちに自分の着替え、買い物の荷物片付けなどあり、

そしたら子どもたちがテレビはこれがいいだのあれ観たいだのユーチューブ見てもいいだのスマホに入ってるゲームやりたいだの言ってきて、

はいはいわかったわかったこれでもやってて、よし、お風呂の掃除と準備、ご飯の支度、今日も適当!適当めし!

 

それ全部オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラーーーーーーーーー!!!!みたいな感じで、やれ風呂、やれ着替え、あれもう7時!?やれご飯、歯磨き!さて寝るよ!絵本持ってきな!!

 

て感じで、私平日は子どもたちと全然遊んでないんじゃ…ということに気がついた。

 

もちろんカルタや簡単なゲームやお絵かきをして遊ぶこともたまにある。一緒にポケモン見るときだってあるし、レゴを組むことだって。

お母さん、マグフォーマーしてーと頼まれることだってめんどくさいけどどやっている。

しかしそう向き合って遊ぶのはたまのことで、いつものことではない…

 

お風呂やご飯、歯磨きや着替え、そのほかお腹すいたとかウンチ出たとかそういうことでわたしの時間がほとんど消費されていて、子どもたちと遊ぶ時間なんてほんとちょこっと余裕しかないんじゃないか…

 

そもそも常々感じていたことだけど、子どもと大人が遊ぶ、という行為は、もしかしたら一見すごーく簡単なことのようで、難しいことなんじゃないだろうか。

 

子ども時代はすべて子どものものであって、大人になるための準備期間ではない、って本に書いてあったけど、

大人である私たちが正しく楽しく子どもと遊ぶということはもしかしたら看護師が正しい位置に注射したり、正しい方法で浣腸したり身体拭いたり着替えさせたりするようなことなんじゃないか。

それらも専門的知識と訓練ないままやろうとすると、とても大変だし難しい…。

 

保育士さんというのは、もちろんだけど、ただ子どもと遊んでいるわけじゃなくて、専門的な関わりをいつもしていて、だからこそ子どもたちがイキイキと喜んで遊んでくれるように、

子どもたちと遊ぶってことは、わたしが考えているより難しいこと、もちろん料理や片付けの片手間にできるようなことじゃないのかも…ということを考えた。

 

 

なに突然って、オラオラオラの毎日の中で、子ども達と遊ぶ、ということ自体の難易度の高さを意識した、という話です。

いま書き出してみたらもちろんできる余裕全然ないことが明確になったので、余裕あるときは向き合って遊ぶことに集中しようと改心しました。

 

このままではお母さんいつも忙しそうで遊んでもらった記憶ない、という事態になりそう、とほほほ。

 

 

そうして本日は朝早く(4時前)起きたため朝活するぜー!と意気込み、朝からストーブに火をいれて掃除、片付け、風呂、朝食準備をしていたら子どもたちが起床する前にぐったりつかれて、6時半から7時まで朝寝しました。

結局、なにも余裕がない朝に。

 

さて、明日もがんばるぞ。おやすみなさい〜。