Many and Very

いつ死んでもいいように、なるべくがんばって生きたいだけ。

運命というにはあまりにも

別に誰かの育児や人の生活スタイルのことなんて、人それぞれでいいんだから誰かが誰かに意見するようなことじゃないってわかってるんだけど、

 

今日はちょっと思うことがあったので記録に。

 

 

ちょっと前に、かねてより愛読している「ほぼ日」の今日のダーリンに、糸井さんが読書家について書いていることがあった。

 

読書はすばらしいし、いろんな本を読んでいろんな知識を持ち、考えを深めていくことはかけがえのないことだけど、

読書家の中には「本を読んでること」自体を鼻にかけてしまう人がいることも事実だと思う。

だけど「本を読むことができる」ことには、いろんな幸運が積み重なっている。小さな頃から本が身近だったのかもしれないし、本について興味をもたせてくれる誰かがいたかもしれない。

本を読むことはすばらしいけど、だからと言って、本なんか読まない人についてどうのこうの言えることじゃない。

自分の中に少しだけでも本を読んでることに対して奢るような気持ちがあるんだとしたら、自分は本なんか読まないほうがいいし、そういう自分でいたい、みたいな内容だった。

 

内容はちょっと私よりにひん曲がってるかもしれないけど、とりあえず糸井さんのコラムを読んで私に残った内容は上記に書いてあることだ。

 

 

それを読んだ時、私には「本を読んでいる」ことについてのおごりの気持ちがあったので、恥ずかしかった。

そうか、今まで当たり前にあったこと、当たり前だと思ったことは、実はそうじゃなかったのか、そうだったのか、当たり前だけど違う人もいるんだよ、そうだよなぁ・・・

 

嘘じゃない、私は30過ぎるまで、気付かなかったのだ。

自分がいかに恵まれた環境で育ったということに、マヌケな様子でヘラヘラしながら、全然まったく、いかに自分がしあわせのなかで育てられたかということに、気づいていなかったのだ。

 

 

ということは、あれれ、もしかして、

私が私でいられること、私が夫や息子に出会えたこと、いい友人をつくることができたこと、いま幸せであること、息子を愛してあげられること、そのほか私の人生の色々な良い面は、

自分の努力によって掴み取ったものってほんの少ししかなくて、あとは誰かがプレゼントしてくれたみたいな、ラッキーの積み重ね、まぁもっと素直にドラマティックに言えば、全部奇跡のプレゼントみたいなことだったんじゃないの・・・?

 

 

そしてそれと同様に、自分がこうしていられることが実は自分の努力なんかじゃなくて、ラッキーの積み重ねなんだとしたら、

そうできない人がいたとしても、それはもしかしたら本人の努力不足なんかじゃなくて、アンラッキーの積み重ねで、そうでしかいられなかった、そうする方法しかなかった結果でもあったんじゃないか、という可能性についても考えずにはいられなくなった。

 

 

もちろん運命によって全て決まってるとか思ってるわけじゃないし、たとえ不幸な環境に置かれていたとしても何度でも自分の力でやり直せるのが人生だけど、

だけどその生きていく強さすら、獲得するためには自分以外の必要条件があって、人との関わりの中で勝ち取っていくんだとしたら、

 

誰かに愛されて、疑いもなく誰かを愛して、自分が生きている理由に疑問を持つこともなく生き続けるってことは、誰かの幸せの積み重ねで成り立ってることなんだなってことを考えれば、

 

そうできない誰かのことを、「そうやってるからダメなんだ」とか「そんなのは努力が足りない」「本人次第」と評価するには、あまりにも強引で乱暴で、不遠慮なことだと、今はそう思う。

 

 自分もそうできてるからって相手もそうだとはもちろん限らなくて、

自分のように努力や経験を重ねれば自分のような素晴らしい体験が得られるという考えかたは、ひどく横暴だ。

 

 

そんなことを考えていたら、ずっと昔旅行先で知り合った男友達とSNS上で地味につながっていて、奥さんがちょっと変わった様子の人なのでなんとなく時々フォロー外からインスタを見たり、公開しているブログを見たりして、軽くストーキングしてるんだけど、 

今日彼女のブログを見たら、子育てについて自分の考えを書いている箇所があった。

 

少し読んで内容が胃もたれしそうだったので流し読みしたんだけど、それでも大分飲み込めずに引っかかっている。

だいたいひっかかった内容は「小さな頃からなんでも除菌シートで口にするものをいちいちふいたり、いつ歩いたのか、いつしゃべりだしたのか分からなくて、普段どんな食べ物を食べてるのかもしらなくて、子どもと離れたいからって生まれて数ヶ月の子どもを保育所に預けたりして、そういう母親は子どもを見ればすぐにわかる、子どもは親のものなんかじゃないのになんで産んだんだよと説教でもしてやりたい」ってところと、

 

「生まれ持った性格や性質もあるけど、母親の存在というのは大きいから、これが私!あんたの母親!というポジティブなエネルギーをバランス良く伝えていきたい」というような長々したくだりで、うえぇぇぇ

 

 

何かに向けて努力し続けられるということ、大変な環境の中で学べること、何かから喜びを見出せること、

 

人生の中ではかなり大きな課題だけど、そうできる人にはできる理由が、

できない人にだって理由があって、

 

できてる人だって何かが少し違っていたら、そうできなかった可能性をいつもそばに置いて考えることは、必要だよなって最近心から思う。

 

 

 

このブログを書いていたら、ゴロゴロしながらパズドラをして眠くなったH氏に「なにについて書いてんの?」と質問された。

 

「別に、今日考えたこと」とぶっきらぼうに答えると、「ちょっと話してみてよ」とめんどくさそうに聞いてくるので、

 

「めんどくさいなぁ」などと説明すると「俺は違うけどあんたは環境に恵まれてるから周囲に感謝すべき」みたいなことをぐにゃぐにゃとつぶやきながら目を閉じていたので、

眠くなったんだなぁ、めんどくさいから早く寝てよね、とか思いながら右の鼻の奥につまっていた鼻くそを人差し指をつっこんでぐいぐいほじくり返していたら、

 

「あんたは人前で鼻なんてほじってほんとバカだね」とパッチリと目を開けて見られていた。

 

私は恥ずかしくなって「やだっ、寝てるかと思ったよっ、見ないでよっ!バカっ!」と言うと、H氏は「はぁ?あんたが勝手に鼻ほじってるんでしょ、こっちだって見たくないわ!」なんてことを言って笑ってむにゃむにゃと寝てしまった。

 

 

大好きな人と結婚して、セックスできて、子どもまでてきて、抱き合ってキスして毎日が始まって、同じものを食べて、これが私の努力によって勝ち取った生活だと言うには贅沢で傲慢すぎる。

 

いろんな人からもらった奇跡のかけらでできた幸せの種を自分も家族につないでいけるように、努力しないといけないな、と思った今日だった。