Many and Very

いつ死んでもいいように、なるべくがんばって生きたいだけ。

知らないと見えない

先日のキャンプの帰りにぼんやりと山道の脇に生えている草木を見ていた。

 

・・・何もわからない。

 

花もいろいろ咲いてるし、草も形は違えども、私にとってはすべてが「草木」というもの。一つの名前もわからない、名はあるはずだが、名もなき山の名もなき草木。

 

となりで未開の凸凹道を運転している夫に「この中で知ってる草とかある?」と聞いてみたが、夫は「ひとつもわかんない」と答えてくれた。私と同じだね。

 

これでひとつでも草の名前知ってたら思うことも違うんだろうなぁと、私はぼんやりと窓の外を見続けた。

 

 

そして別の日、緑のセンターという場所で開催された夏休みの親子向けの押し花ワークショップに行った帰り、となりの温室を見て帰ろうと義母が言うのでさらっと北海道の気候では育たない砂漠や熱帯地方に生えるであろう植物を見た時も、まったく同じことを思った。

 

うーん、何もわからないけど、何か知ってたら私が今後砂漠で遭難しかけたときに植物に遭遇した場合には何らかの知識にはなりそう、などと。

 

山の草木とちがって、さすがに温室では「お、これは見たことあるよ」と知ってる草木もいくつかありました。アロエとかね。

ふーんなんてピョロンと生えているアロエの葉を見ながら思い出すのは、吉本ばななのデットエンドの思い出に収録されているアロエの話。

 

アロエを見るといつもあの話を思い出す。

道路の脇にどっさりと生え散らかしたアロエを日のあたるいい場所に移したら、いつどこでアロエにあっても感謝されるようになる、みたいに思う場面。

 

植物と仲良くなるっていうことは、そういうことなんだよなぁ。

ガジュマルを家で大切に育てたら、どこにいってもガジュマルが友だちのような気がするし、ポインセチアを育てたらクリスマスが来るたびにありとあらゆるポインセチアは友だちにみたいに思えるように。

 

 

物事は、世界は、生活は、いつでもどこでも同じようなものだよね。

桂浜はいままでの私にとってはマキバオーが足をつばけてた(休憩してた)場所だったけど、いまでは坂本龍馬が幼少期に仲間とたわむれた場所なわけだし、

 

歴史を知るとそれまで通り過ぎていたただの石碑が急に拝みたくなるようなものになったりして、非常に感慨深い、

 

あんたいきなり何の話だって、えーとですね、今日はスイクンってポケモンが16時から日本で一斉に出まくるレイドバトルの日で、

職場のポケだち(ポケモン友だち)の方々と市内のいろんな場所に子どもたち連れてバトルに出向いたんだけど、すんごい数のポケモントレーナーたちがポケ活(ポケモン活動)しててまじでびっくりした、という話なんですよ。

 

普段は小学校の課外授業とか以外では誰も立ち入らないような記念場所に、入れ替わり立ち代り車が出たり入ったり人々がめっちゃ賑わっていて、まぁそこはポケモンのジムなんだけど、

「えっ我が町でもこんなんなっちゃってんの!?これポケモンやってない人みたらわけがわからないし、何かあったかとびっくりされるよね!?」などと非常に驚いて、自分の周りで何が行われてるかってほんと知らなきゃ分からないねぇ〜〜〜〜と思ったといういつもの話。

ソシャゲなんて現実見た目にも分からないんだから、ほんと見てもわからないことが今後もたくさん増えるかもしれないですね。すごいな、私が見てるのはバーチャル世界の入り口なのかも。

 

 

知らないものは知るまで見えない。

見えないものは見えるまで知り得ない

まぁ当たり前なんだけど。改めて。

 

 

 

そういえば自分への就職祝い(気が早い)に久しぶりにバック買いました。

ちいちゃな息子ふたりがオムツも取れて、いっきに荷物が軽くなり、財布ともろもろのみで外出できるようになった最近。

 

ちょっと公園行くのにも1泊旅行ですか?というくらい荷物持ってたのがついこの前なのにな。バッグは軽くてとても快適です。

 

さておやすみなさい。あと1日で幼稚園か。はよ行け、というわたしの精神状態。