昨日の夜、あんまりぐっすり寝たもので、今日起きてぐずぐずと枕元のアイフォンで時間を確認すると、時間は7時45分だった。
長男のバスがうちに迎えに来るのは9時ちょうど。
それまでにお弁当、朝食、着替え、準備、無理だ、はい無理・・・・寝坊・・・・・送っていこ・・・って感じで諦めて、
せっかく仕事もお休みなのでSNSなどとぼんやりチェックしていると、両脇の息子たちものっそりと覚醒し、それぞれにリビングに起き出していった。
私は朝が弱いので、もうどうせ遅刻だし・・なんてまだ布団の中でツイッターなどを見ていたら、長男が絵本棚から「はろるどのふしぎなぼうけん」を「読んで」と差し出してきた。
朝っぱらから、めんどくさい・・・しかもはろるど・・・長いんだもん・・・まだネットチェックしながらぐずぐずしていたい・・・などと思って長男に一度背中をむけ、
「やだ、お母さんまだゴロゴロしてるんだもん」と断るが「なんでだよぉ、よんでよぉ」と長男は粘って言う。
やだよぉ・・・と言いかけた時、
ふと昨日読み返した自分のブログに書いてあった「子供は自分の自由になることなんてほとんどない、だからこそ何かしたいと言ってきたときは自由にやらせてあげたほうがいい」的な内容の記事を思い出し、
確かに、この人は私に読んでもらわないと本を体験できないんだよなぁと思い直して、
長男が持っていた「はろるどのふしぎなぼうけん」を読んだ。
その絵本は私が小さな頃に母によく読んでもらったもので、先日祖母の家から大量に引き戻された絵本の束にあった一冊だ。
「はろるど」という名のどうみても2歳くらいのロンパースをきたかわいいかおの男の子が、一本のクレヨンを持って冒険する、という内容。
はろるどのもっているクレヨンは、どこにでもいけるし、どうにでもなれる、魔法のクレヨン。
小さくなったり大きくなったり、穴に落ちたり空にいったり、次々に、しかしなだらかにくっきりと変わるはろるどの小さくて大きなぼうけん。
ぐんぐん世界が広がったところで、ふとつかれて帰るのはじぶんの部屋。
「かいじゅうたちのいるところ」みたいに、ググッと空想から現実に戻ったかと思えば、また混じり合う空想の世界、という絶妙なラスト。
絵も潔くシンプルで、上品だけどポップでかわいくて、無駄がない。
どういう絵本?と聞かれれば、
そんな感じ、というようなことしか言えず、言葉で表現するにはすごく難しいんだけど、これはほんと完成されてるな・・・と起きたばっかりの無防備な頭に妙にしっくりはまった。
完成されている・・・
そうして何かがピンと来た気がした。
もしかしたら、もしかしたら、今まで私が「どんな話だったかイマイチわからんな」と思っていた本の種類のものは、これなのかもしれない。
絵本を子どもに読み聞かせてる時の私の状態、
このはろるどを読んだ時の感覚、すべてが無駄がなくて、言葉にするのは難しいが、しかし理解できている、何を言いたいのか、言葉では言うのが難しいってことを、一つの小説で、一つの作品を通して伝えている、っていうのが、ある種の小説家の作品なのかも。
先日読んだおうちでの紙芝居シリーズのように
「王様の耳はロバ」や「長靴をはいた猫」「ジャックと豆の木」みたいに、ストーリー自体の面白さや、教訓を伝える話もあれば、
「もこもこ」や「ごぶごぶ ごぼごぼ」のように、言葉の語感と映像のイメージを伝えるもの、
こぐまちゃんシリーズやぐりとぐらシリーズ、ツペラツペラさんのシリーズ、多くの絵本で何を表現しているか、伝えているかがそれぞれ違うように、
そしてそれぞれの1ページ、1作品を読みおわった時の気持ち、それを作った人が、こどもたちに向けて何を表現するために書いたのか、共感はどこにあるのか、何を伝えるために書いたのか、それがどのくらい伝わっているか、
絵本でなら明確にわかる。たとえうまく言葉で説明できなくても。
もしかしたら、そうやって小説も、なっているんじゃないか、
言葉で表現できなくても、
読んだ後、どういう気持ちになっているか、どんな感覚が自分に残ったのか、それでいいんじゃないか、てゆうか、それでいいんじゃん・・・・
そういうということを、短時間で、すごいスピードで、思った。
というのは私少し前から吉本ばななさんの「アムリタ」を読んでいて、
最近吉本ばななさんの作品はずっと離れていたんだけど、ぶっとんでスピリチュアルなところが最近の自分の感覚と合わない感じがして、
しかし久々に読みたくなるきっかけがあって、引っ張り出しても見つからなかったので、ブックオフで一冊105円で文庫を買って、1日に少しずつ読んでましたが、なんとなく気持ちが乗り切れず、
しかし今日「はろるど」を声に出して読んだことで感覚がスッキリして、もくもくとページが進み、半分残っていた下巻を2時間で読み切った。
結論を言うとすごく面白かった。
本人があとがきで言うように「稚拙な小説だけど嫌いになれない」
それがぴったりとはまる、無骨で、登場人物もなんだかよくわからないし、だけどひとりひとりが魅力的であって、まどろっこしいところがたくさんあって、しかし作品としては光がある。読んだ後は浮遊感が残る。
理解したとは言い切れないが、またいつか読みたいと思える。
それでいいんだって、その感覚が私に残ることが、もしかしたら作者の喜ばしいところなのかも、なんてことを思った。
そして私が日々こどもたちに読んでいる絵本、
絵と言葉で本の世界を理解して、「おもしろい」感覚を一つずつ掴んでいくプロセスは、
「読み聞かせの効果」とか「あたまのよくなる子に育つ」とか、そんなのはまぁちょっと置いといて、
絵本を通して知らない誰かの感覚的なものを理解していく、掴もうとしていく行為って、
音楽や絵画やいろんなものの入り口、共感の入り口になってんじゃないか
もしかしたらものすごく自由で、果てしなくて、価値のあることをしてるんじゃないかってこと考えて、目の覚める思いでした。
今日はお休みだったので1日そのようなことを考えていた。
めんどくさ・・とか思う時も多かったんだけど、読み聞かせがさらに楽しくなりました。そして自分にとってもあらためて読書が楽しくなった。
35歳、おそいっちゃおそいんだけどさ。
しかし読書というものになんかの手がかり掴めそう。
すぐビリビリになる表紙。だいたい次男のしわざ。
「お母さん、今日お花みたいのつくったんだよ、あげる」と言ってくれたイチョウでできたお花。
- 作者: クロケット・ジョンソン,Crockett Johnson,岸田衿子
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