Many and Very

いつ死んでもいいように、なるべくがんばって生きたいだけ。

自由への扉

ある日の夜、女は風呂に入りながら、離婚について考えていた。

 

離婚

 

りこん

 

リコン

 

離婚。

 

 

いまやふた組に1組は離婚をする割合だという。

 

離婚したひとくみは、離婚しなかった1組より「しあわせ」な生活を送っているんだろうか。

 

どうか、離婚した後の生活が、愛に溢れ、なにより自由に溢れていることを祈ろう。

 

 

 

まぁ女というのは私のことです。こんばんわ。

 

しゃべられないストレスや、体調不良(咳)で眠れないストレスで疲労が蓄積し、イライラして離婚について考えていました。

 

 

女の怒りのポイントは加算スタイルだと言うけれど、ほんとうにそれはそうだと実感する。

 

村上春樹はよくコラムの中で「僕は長年の結果、女性というのは突然に怒り出す生き物だ」みたいなことを言っているけど、それはその通りだし、

 

そのコメントを見るたびに「ほんっと男って何もわかってないよな」と半ば脱力したような気分になる。

 

 

私というか、女の怒りポイントがいつどこでどうやって溜まっているのかは夫にも想像できないだろう、それくらい日常的にスムーズに加算されているからだ。

 

言い換えれば実に日常的に私の神経をガリガリと爪で逆撫でしているとも言える。

 

咳と息子の授乳で寝不足の中、食事の支度をしている夕方に、息子ふたりが一番かまってほしいときに「俺お茶してくる、何時に帰ってくるかは決めてない」などといって本屋にふらりと出かけて行ったことや、

 

食事の支度をしている夕方、息子ふたりを一番世話して欲しいときに、「俺髪切ってくる、8時すぎに帰ってくるけどお風呂それからでもいいなら入れれるよ」などと言って散髪に出かけていったことや、

 

週末の休みに一年に一度楽しみにしているアウトドアイベントに出かけて、「買い物してこようかと思ってるけど悩んでる〜あっち行ってから決めるからまた連絡する〜」などと行ってリビングで寝落ちしていることなどが原因だ。

 

ほかにもあげれば片手山ほどある。

 

 

その都度私は、「ちょっと、ねぇ、うそでしょ?ふざけないでよ?」と言葉で湧いた感情を「怒ってもしょうがない」に変換し、

その結果ふざけんじゃねぇが燃えた後の灰が残る。

 

その心に積もった灰がチラチラと蓄積し、私の感情を濁らせ、笑顔を曇らせ、声を低くさせる。

 

夫は怒りで熱くなっている私になるべく触れようとしない。

 

 

そうして女は、離婚について考えるのだ。

 

 

 

もし、もしです

 

もしですよ、離婚したら

 

そりゃいま収入は夫がすべてかせいでるわけだから、かなりきつくなる。

 

私の職業で夫の収入と同等のものを得ようとするなら勤続10年以上はゆうにかかる。

 

 

残業、夜勤、休日の勉強会、無理だ、それは無理

 

しかし養育費をもらうとすればどうだ、

 

プラス10万、月プラス10万円とシングルマザーのいろいろ控除をうければしっかり稼げばやっていけるんじゃないか、母の助け、これはでかい、それもあるし、

周りの甘えをありがたくベロ舐めして生きていけばなんとかなるんじゃないか

 

いや、まて、私はもう一人子供がほしいんだった、

 

3人の父親は同じ男がいい、

 

そもそもH氏のことが嫌いなわけじゃないんだからもう触れなくなるのはいやだ、

 

キスだってして欲しいし抱きしめて欲しいしセックスだってしたい

 

そう考えると窮屈に思えるのは結婚という制度なんじゃないか

 

結婚って制度の中だからこそ、夫として、父親として、なんちゃらとしてとかいろいろ求めてしまって勝手にいらいらして、

 

結局H氏はH氏でなんにも変わらないのに、その人そのものは愛してるんだけど、

 

肩書きがついたとたん一瞬にして求めるものが肥大するのはどうしてだ、なぜなんだ

 

私はもっと身軽でいたいのだ、身軽にH氏を愛して、身軽に母で、身軽に食事をつくって、身軽でいたいのに、

 

妻だから食事を一生懸命つくらなければいけない、仕事で疲れてるH氏に、味噌汁、炊きたてのごはん、主菜、副菜、

 

家を綺麗に保たなくちゃ、子育ても手を抜けないぞ、そういう自分に対しての肩書きも、自分で自分を狭く、重く、窮屈にしている理由なんじゃないんだろうか。

 

もしこれで離婚をしたら、

 

私は妻でなくなり、H氏は夫じゃなくなり、

家庭から解き放たれて、

 

私はかわらずいろいろなことにチャレンジできて、自由で、楽しく、身軽で、素敵に、

私らしくいられるんだとしたら、

 

 

そこまで考えて女は、そんなことは無い物ねだり、できないことへの言い訳だと気づく。

 

井の中の蛙、というよりも、虹の中のしあわせってことを思い出すのだった。

 

 

自分にも相手にも、何も求めずあたしはあたしのままで、そのまま気軽に、どこまでも自由、好きな夢を持って生きていけたら、どんなに楽で、どんなに明るくて、どんなに楽しいだろう。

 

H氏が自由にしてる分だけ、

じゃ、今日はごはんつくりやめたー!帰りお弁当買ってきてーーー!!となんの嫌味も後味の悪さもなく言えたら。

 

子どもがいても、やりたいことを大きく口に出せたら。

 

 

 

求めない生活、なんにも欲しくないあたし、

 

あぁ、想像しながら今日は寝よう。

 

 

 

「結婚してると相手にいろいろ求めちゃうから、離婚して恋人に戻ったら、手伝ってくれてサンキューくらいに気楽でいられるのかな」と母に話すと、

 

母は「そうしてる人はたくさんいるよね、芸能人でもよくいるんじゃないの!」と言うので、

 

芸能人、ねぇ・・・・・・と思った。

 

 

自由への扉、どこでもドアに見えるその扉を、ちょっと本気で開けたくなる日も人生にはある。

 

 

 

ただ、そういう風に考える1日があったというだけの話だけど。